Exhibition

泉太郎 “電源”

2021年2月27日(土)– 2月27日(土)

フラジャイルGB, 2021 ©️Taro Izumi

Taro Izumi : Electrical Outlet


-お知らせ-
会場2階の工事に伴う水漏れ事故により、泉太郎個展「電源」を一時中断いたします。
会場の補修後、来年2022年に再開する予定です。
再開時期につきましては、改めてお知らせいたします。何卒宜しくお願いいたします。




協力:
株式会社東京スタデオ / Wonderstock Photo / ⻑瀬⼣⼦ / Art Center Ongoing / ⾼村瑞世 / 奥多摩美術研究所 / ASAKUSA / Take Ninagawa

本展は泉の最初期のビデオ作品(約40点)を中⼼に構成されたアーカイブと、展⽰に関するスケジューリングのシステムが回路のように交錯し、展開されていくものです。
泉太郎が初めてビデオカメラに触れたのは、通っていた⼤学で古いテープ式のカメラを借りた時だといいます。内臓までも⾃作した⼈型モデル(素⼈モデルと名付けられた)に⼈間の⽇常⽣活におけるタスクを体験させ続け、ホームビデオのように記録しました。⽣活の様⼦が映像に収められるとともに、素⼈モデルの表⾯には⽇々の⽣活の跡が残っていきます。現実を切り取り再⽣され続ける映像と、⽇々の体験の蓄積をあらわす⽣々しい痕跡、次元の異なる記録⽅法により⼈間を⼈間たらしめている要素を複層的に浮かび上がらせるとともに、⽇常に侵⾷し、消費し続ける映像メディアについての批評となりました。
泉は以前、内臓のようなシステムについて触れています。複数の臓器がそれぞれ関係しあいながらも異なる機能で⽣命維持を担っているような、作品間の流動的な繋がりについて。あるいは建築という⾻組みの内臓を作るように展⽰を作るという空間への意識について。また、「イメージに内臓を与える」という近作についての⾔葉は初期作品との繋がりを⽰します。
今回の展覧会では映像と⼈間や⽣物を同じシステム上に並列し、⼀⾒不条理な考察のプロセスを提⽰しています。⼈間が作り出した時間、⼈間の社会を規定している計画や予定の中に組み込まれた展覧会の「整えられた機能不全」についての観察の場を設けていると考えられます。⼊れ代わりながら⾝体を⽀え続ける内臓のような構成はアーティストのキャリアについてのヒントを⽰すことになるのでしょうか。

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「展覧会が器だとしたら、その器の内側には縄⽂⼟器の⽂様ような凸凹(でこぼこ)とした凹凸(おうとつ)が⼊り組んでいて鍾乳洞のよう。⼈の⽬に触れる時間とそれ以外の時間の落差がまずは凸凹の正体でしょう。平坦に滑らかに、光が引っかかったり影が染み付いたりしないように均された器の中で作品が浮かび上がる。
今⽇、あの展覧会に出かけることにした。休みの私が働いている作品の様⼦を⾒学に⾏く。OFFな⼈間が楽しむためのONな状態について、道すがら考え込んでしまう。そうするとやはり道に迷ってGoogleマップで仕切り直し、離れたり近付いたりしながらの道程は間延びして考えごとのチャンスとなり、ここから数回はマップを開くことになると思う。このまま私がたどり着けなくても作品はそこにあるのだろうか。今⽇は散歩に切り替えて展覧会は明⽇にしようという選択肢はない。明⽇は休めない。というか、今⽇は本当に休みなのだろうか、そして明⽇は本当に休みではないのだろうか。休みか休みではないか、まずはそれを決めようと上の空、道選びを疎かにしながらさまよって細かな凸凹に何度か躓く。液晶上のマップに⽬を落とすとS駅の路地裏にいるようだ。細かな凸凹は記されていない」(泉太郎 電源についてのテキストより)

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泉太郎(いずみたろう)
1976年奈良県⽣まれ。作品の展開と研究は同軸で⾏われ、その過程で発⽣する摩擦や⽭盾も含んだ作品は、隠されたルールや⼈間を形作る環境についての批評となる。⾝体と映像や画像、⾳響などのメディア間の往来についての問いは、パフォーマンスや映像、写真やドローイングなど、様々なメディアにより提⽰される。
近年の主な個展に、Pan (2017年、パレ・ド・トーキョー、パリ)、突然の⼦供(2017年、⾦沢21世紀美術館、⾦沢)、とんぼ(2020年、Minatomachi POTLUCK BUILDING、愛知)、コンパクトストラクチャーの夜明け(2020年、タケニナガワ、東京)、ex(2020年、ティンゲリー美術館、バーゼル)など。